はじめに

昨年、はじめてのホームページを立ち上げて半年になります。
子供の頃から読み貯めた、主に児童図書と呼ばれるジャンルの本の紹介をしてみたいと思いたったのですが、いざまとめようと思うとなかなか難しく、捗りません。
同じ時期に始めたブログの方は、結構気軽に好きなことを書き込んだりしています。

そこで、いっそ本の紹介もブログ形式にして、それをHPに転載するというのはどうだろう?などと浅はかなことを、年の初めに思いつきました。
びっくり箱(jack-in-the-box)みたいに、どんな本が登場するかは気分次第という気ままなブログですが、とりあえずひっそりと始めてみようと思います。

<おことわり>
タイトルの下の出典は、私の所有しているテキストです。現在絶版になっている場合もあります。また、初読時期は記憶のあるものに限り記載しています。
前半はストーリの内容紹介です。後半の感想部分でもお話の展開に触れております。
まだお読みになっていない方はご用心くださいませ。

                       2006.1 totoko

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2011年8月 6日 (土)

丘の家のジェーン

作:モンゴメリ 訳:村岡花子 新潮文庫(新潮社)

うららか街はその名にふさわしくない・・・トロント中でいちばんゆうつな通り・・・ジェーン・ビクトリア・・・おばあさまはビクトリアって呼ぶけど私は絶対ジェーンだわ!・・・おかあさまだって二人っきりのときはジェーンと呼んでくださるもの。
11歳のジェーンはそう思う。

レンガ造りの城がまえの大きなおうち、ジェーンの母を溺愛するあまりジェーンにとっては厳格でいかめしい祖母、ひっそりとした伯母、ジェーンを愛してくれる美しく優しい・・・でも外出がちの母。
厳格な祖母に一挙手一投足に至るまであれこれ言われすっかりスポイルされてしまったジェーンは、自分に自信を持つことができず、通っているセント・アガサ校でも身の置き所のない思いで暮らしていた。

ある時ジェーンはいとこの家で手に取った新聞の一面の論説に添えられたにケネス・ハワードの写真になぜか惹かれる。でもその写真は祖母に見つかり逆鱗に触れて暖炉に放り込まれてしまう。

そんなある日、ひと夏を一緒にすごすようにと父からの手紙が届く。
父・・・ずっと死んだと聞かされ去年同級生の意地悪い噂話で実は生きているのだと知らされた人。
そんな人とひと夏を過ごすだなんて・・・暗澹たる思いでプリンスエドワード島へ向かったジェーンの前に現れた父は・・・

父さんと二人っきりで暮らす島の、ランタン丘での生活はすばらしい!
慣れない家事だってどうにかこなしていく。
さりげなく知恵を貸してくれる個性あふれる人たち、物見高く集まってきた楽しい仲間たち、猫なで声のアイリーン伯母さんにはちょっとむかつくときもあるけれど、充実した日々。
父さんと一緒なら、苦手だったはずの勉強がこんなに楽しいなんて!

夏休みが終わってトロントに帰っても以前とは違う自分にジェーンは気づく。
学校生活も徐々に楽しくなり、もはや長い手足をもてあましているだけのおどおどした娘ではなくなったジェーン。
おばあさまは簡単に思うままにはならなくなった“ビクトリア”を苦々しく思いながらも、ジェーンを懐柔しようとあの手この手。
でも、おばあさまの以前だったら有効だったであろう痛烈な皮肉にも、二度と島にはやるまいとの魅力的な提案にもジェーンは動じない。

だが次の年、島での夏を終えトロントに帰ろうとするジェーンに、アイリーン伯母さんは思わせぶりにある事をつぶやく。
それはジェーンの心に不安を植え付け、それは冬に届いた伯母さんの手紙によって耐え難いまでの絶望に変わる。
確かめるべくジェーンは家をぬけ出し、島へと急ぐのだが・・・

                                         * * * * * * * * * * * * * * *

何年ぶりかで、こちらを更新(汗)
角川文庫の八月の新刊で、この『丘の家のジェーン』がだされることを知ってその前に。

モンゴメリを読みふけったのは中一のころだったろうか?
『赤毛のアン』のシリーズも大好きだったけど、この『丘の家のジェーン』もとても好きな一冊だった。

セレブの母に、国際派ジャーナリストの父、母を溺愛するあまり母の心を占めるものを排除しようとする祖母、今読んでもちっとも古くない気がする。現代を舞台に翻案してドラマにだってできちゃいそうな気がする。
モンゴメリーにはめずらしくアーバンな雰囲気もあって、それでいてお約束の村の人間関係のエピーソードもたくさん出てきて、二度おいしい。
大人になってから読み返してみると、少女時代には読み飛ばしてしまっていた母と祖母との人間関係、葛藤が恐ろしいほどに深い。
アイリーン伯母さんという人物像も、ある意味おばあさまより始末の悪い恐ろしさがある。こういう人いちばん嫌い!
村の人間関係、うわさ話に満ちている『赤毛のアン』もいいけど、モンゴメリってこういうものもかける人だったんだなって・・・。

私の持っている新潮文庫は村岡花子さんの訳なのだが、角川文庫は木村由利子さんという方の訳らしい。
現代の訳で、どんな風に空気が変わるかちょっと楽しみ。こどもの頃ずっと不思議に思っていた、こけらいたのスノービームはなんて訳されてるだろう。
『果樹園のセレナーデ』っていうラブストーリーも好きだったんですが、こちらも新しい訳が出ないかしら?

丘の家のジェーン丘の家のジェーン
モンゴメリ 木村 由利子

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2008年4月13日 (日)

落窪物語

日本古典文学大系 (岩波書店)

中納言の立派なお屋敷。でも、そのお屋敷のはずれの一段と床の落ち窪んだ部屋に住まわされているので「落窪の君」と呼ばれている少女・・・何を隠そう彼女はこのお屋敷の姫君なのだ。早くに母を亡くし後ろ盾として頼りになる親族もないために、継母である北の方によって、端女同然の扱いを受けている。
北の方には、高貴な生れて清らかで美しく、その上賢くて書や歌に、何をさせても秀でた落窪の君の存在が目障りなのだ。

屋敷の中で味方といえば、以前から仕えていた阿漕だけ。だが、その彼女も北の方によって姉妹である三の君の侍女としてとりあげられてしまい、今では暇を盗んで様子を見に来てくれるのが精一杯。
手先が器用なのをよいことに、たくさんの縫い物を押し付けられこき使われても文句も言えない。

そんな毎日が続く中、ある時阿漕の所に通ってくるボーイフレンド帯刀から話を聞いて「落窪の君」の存在を知った、帯刀の主「少将」が彼女に求婚の手紙をよこすようになる。
そしてある日二人はとうとう出会い、結ばれる。
実はこの少将、計算高い北の方が自分の娘四の君の婿がねにと狙う、血筋もよく有望株のエリート。(ただ、この時点では・・・というよりは随分あとになるまで・・・流石の北の方も落窪の君の相手が誰かということは知らないのだが)

落窪の君に求婚者があるということに何となく気づいた北の方は、落窪が幸せな結婚をするのは癪にさわるし、便利な働き手を失いたくないという思いもあって、自分の叔父「典薬の助」という狒々爺(おっと失礼・・・実際そう書いてあるわけでは)と結婚させようとし、落窪の君を物置に閉じ込めてしまう。さぁ、大変!

中納言一家が参詣の旅に出た隙に(実はこの留守の間に「落窪と早く何とかなっておしまい!」と北の方は典薬の助を焚きつけて出かけるのであるが)どうにか、落窪の君は救い出され少将の君の許で幸せな結婚生活を始める。

だが、北の方が落窪の君にした仕打ちを許せない少将は、手厳しい仕返しを開始し・・・

          * * * * * * * * * * * * * * * 

実はこのお話、こどもの本に分類するのはちょっとどうか・・・とも思うのだが、初めてこの物語を読んだのが六年生の夏休みだったので、ここで紹介。
この本を私は子ども用に抄訳されたものではなく原典で読んだ。夏休み、滞在していた母の実家で、叔父の本棚、岩波古典文学体系が並ぶ中ただ「物語」の二字が目に入って何となくこの本を手にとった。初めて触れる古典だったが上に注釈があったのと、次はどうなるだろうとハラハラドキドキのストーリー展開に魅かれて夢中で読んだ。
今となると、どこまで解っていたのやら・・・なにせ通い婚の風習はおろか「後朝の文」や「三日夜の餅」の本当はどういう意味を持っているのかも知らなかったのだから。(六年生だったし、とりたてておくてだったので・・・)
そのあと、ポプラ社から出ている子供向けの抄訳も読み直したのだが、随分ストーリーが端折ってあってちょっとがっかり。(ポプラ社の本は今手許に残ってなくて、買ってもらったものか図書館で借りたのか・・・記憶も曖昧)

実はこの物語、上に紹介した内容よりそこから先、少将の手によって繰り広げられるリベンジのあれこれが痛快というか壮絶なのだが、やりすぎな面もあって「面白の駒」の一件(少将が自分が結婚すると見せかけて「面白の駒」と呼ばれる青年と四の君を結婚させる)あれはあまりにやりすぎ。
田辺聖子さんがこの物語を題材に「舞え舞え蝸牛」という小説を出していらっしゃるが、こちらはとても救いのあるストーリーになっていて、中学生ぐらいならこちらがおススメ。

この物語の中で、私がなにより納得できなかったのは父たる中納言の不甲斐ない存在。なんで北の方の言い分をホイホイ受け容れるのよ!どうして自分の目で確かめようとしないの?って思った。遺言の罪滅ぼしも、なによ今更!なんだか日和見?とも感じられて、いまだに納得できない存在なのだ、この御仁。憎まれ役の北の方のほうがまだわかりやすい。

あの六年生の夏、文章のわかりにくさにもめげずこの物語にあれほど惹き込まれたのは何故だろう。ただ単に継子いじめのシンデレラ的ストーリーという枠を大きく超えて、初めてであった大人の世界の裏側を垣間見せてくれる物語だったからかもしれない。

落窪物語 落窪物語
氷室 冴子

とりかえばや物語 落窪物語〈下〉 (角川ソフィア文庫) 落窪物語〈上〉 (角川ソフィア文庫) 堤中納言物語・うつほ物語 今昔物語集 少年少女古典文学館 (9)

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4167153130 舞え舞え蝸牛 (文春文庫 た 3-13)
田辺 聖子
文藝春秋 1979-01

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2007年7月15日 (日)

鉢かつぎ姫

絵:広川 操一 
新・講談社の絵本 講談社
≪参考≫おとぎ草子 (鉢かづき)
作:大岡 信 絵:梶山 俊男
岩波少年文庫576 岩波書店


Hachikatugi_1 むかし、河内の国にすんでいたお金持ちのさむらいの夫婦。
なかなか子どもに恵まれなかったが、観音様におねがいして、ようやくかわいい女の子を授かった。女の子は大切に育てられ、うつくしくかしこく成長していった。
ところが、姫が十三になったとき、母は重い病気にかかってしまう。
臨終の床に姫をよんだ母は、姫の頭の上に手ばこをのせ、その上から顔がかくれるほど大きな木の鉢をかぶせ、「これは仏さまのおつげなのです。わけはあとできっとわかるでしょう。」と言いのこして亡くなる。

姫の頭の鉢はどうしても外れない。父は大切な姫が人前に出せない姿になってしまったと嘆くし、近所の子どもたちからもいじめられる。姫はとうとういたたまれなくなって、川に身を投げるのだが、大きな木の鉢は水に浮かんで沈むことなく漁師に助け上げられる。

姫があてもなくさすらい歩いていると三位の中将が通りかかり、わけを聞いて同情し屋敷で働くよくよう計らってくれる。しかし、鉢かつぎに与えられたのは一番つらいふろ焚きの仕事、その姿をさげすんでだれも近づかない。
そんな中、三位の中将の四男宰相だけは姫の気立てのよさに気づき、ついには姫と結婚したいと言い出す。

これを聞いた三位の中将の奥方は驚き、何とか息子の宰相を思いとどまらせることは出来ないかと、乳母と計らって上の兄君たちのお嫁さんたちとの「嫁あわせ」を催すことを思いつく。鉢かつぎ姫は、宰相に恥をかかせてはと屋敷を出て行こうとする。
宰相は引きとめようとするが姫の決心は固いく、二人が名残を惜しんでいると姫の頭の鉢がパッと取れ、中からは・・・。

そして晴れて嫁あわせの当日・・・。

          * * * * * * * * * * * * * * * *

前にメインの日記の方でも触れたのだが、私が幼稚園の頃講談社がゴールド版という絵本のシリーズを出していた。その絵本のシリーズが最近何冊か復刻されていて(実は私が読んだゴールド版ももっとずっと前に出たものの復刻だったらしいので講談社にとっては何度目かの復刊?)、あまりの懐かしさに特に絵巻物風の絵が大好きだったこの本とストーリーが鮮烈だった「安寿姫と厨子王」を購入、懐かしく読み直した。

上に紹介したのは絵本に紹介されているストーリー、子供向けにあざとい部分は省いてあるように思う。もともと御伽草子の中の一編で、高校生の頃原典で読んだ時、子ども向とはいえない部分も結構あることに驚いた。今回、岩波少年文庫(大岡信編)収載の「鉢がづき」を改めて読み直してみたのだが、鉢かづきが家を出るきっかけとなる継子虐めや、宰相と姫が親密になる場面、嫁あわせのやりとりなど、確かに幼児向けとは言いかねる。

このお話のようにやむをえない事情で家を出て(何かを被って)身をやつし・・・というのを「姥皮」系の物語というのだと、今回の復刻のあとがきには記されていた。ただこの姥皮系、日本に限ったことではない。(嫁あわせのシーンだけはなんとも日本的だと思うけど・・・)
思いつくだけでもグリムの「千色皮」や「泉のほとりのガチョウ番の女」、ドヌーブの主演で映画にもなったペローの「ロバの皮」、私の大好きなジェイコブズのイギリス民話選の中にだって「"ねこの皮"さん」やら「とうしん草のずきん」やら、「被りもの系」のお姫さまはたくさん登場する。娘を辛い境遇へと追いやったものの改心した父親と仲直りをするという(絵本には出てこないけれどおとぎ草子の「鉢かづき」では最後に父親との邂逅のシーンがある)エンディングまで似通っているものも多い。「被りもの系」お姫さまのルーツとか分布図とか、調べてみたら結構面白いかもしれない。

この「被りもの系」のお姫さまたち、みんなお姫さまに生まれながら風呂焚き、炊事番、がちょう番などハードな下働きのお仕事を弱音を吐くことなくこなすバイタリティーもお持ちのようで、そこがまた魅力の一つだ。身の不幸をかこってよよと泣き崩れ・・・というのでも、ただひたすら王子様が迎えに来てくれるのを待っているというのでもなく、家をとびだしちゃんと自分の足で立って生きている。(その意味で「灰かぶり」-シンデレラ-はこの類型とちょっと違うかも・・・)
絵本のあとがきに「姥皮」系の物語は『貧しい庶民の女性に生きる勇気をあたえてきたにちがいない』(引用)って結んであったけれどそれだけかしら?深窓に育ったお姫さまだって「被りもの系」のお姫さまたちの自立して生きていく行動力や自由さに憧れをいだいたかもしれない。
それに何より、女の子にはいくつになったって変身願望っていうものが・・・私だって、このぶあつい着ぐるみを脱げば中からは・・・ってそんなはずはないけれど。その願望をかなえてくれるのも、この「被りもの系」のお姫さまたちの物語であるような気がする。

だからこそ、洋の東西を問わずこの手の話が長く語り伝えられてきたようにも思える。

4061482602

鉢かつぎ姫
広川 操一
講談社 2002-02

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おとぎ草子 (岩波少年文庫) おとぎ草子 (岩波少年文庫)
大岡 信

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2007年6月23日 (土)

百まいのきもの ―百まいのドレス―

―百まいのきもの―
作:エリノア・エスティーズ 絵:ルイス・スロボドキン 岩波書店編集 
岩波の子どもの本(象)
―百まいのドレス―
作:エレナー・エスティス 絵・ルイス・スロボドキン 訳:石井桃子 岩波書店

いつも教室の隅にひっそり座っているワンダ、
変わり者のスヴェンソンじいさんが住む、とおいボギンスの丘から通って来る女の子。
ペトロンスキーなんていう、かわった名前の持ち主。

マディー(マデライン)の机はずっと教室の前のほう。
いつもいい点をとっていて、どろんこ道なんて歩いてこない来ない子達がすわる席。
一番なかよしの友達のペギーは学校いちの人気者で、とてもきれいな女の子。

ある日マディーとペギーは、ワンダがずっと学校に来ていないことに気づく。
朝、ワンダを待ち伏せしてからかおうと思ったら、遅刻してしまったのだ。
なぜからかうか?って・・・
だって、ワンダったら、いつも同じ服着てるくせに
「わたし、ドレスを百枚もってるの」なんて言うんですもの・・・。
休み時間になるとペギーを中心にみんながワンダのまわりに集まって、「なんまいきものをお持ちなんでしたかしら?」ってからかうのがお楽しみ。
ペギーのようにお金持ちの家の子じゃないマディーは、ちょっとだけ胸がチクッと痛むけど、「百枚ドレスをもってるなんて言うワンダが悪いんだわ!」そうも思う。

そのワンダがずっとお休みしてるなんて・・・
そんな時、図画のコンクールの賞の発表があって、色とりどりのドレスが教室の壁一面に張ってあった。・・・そう、これこそワンダの百まいのドレス。
「ワンダの言ってたドレスってこれだったんだ」とわかった時、
ワンダはもう遠くに引っ越してしまっていて・・・

            * * * * * * * * * * * * * * * *

この本をはじめて読んだのは、小学校三年生くらいの時だっただろうか?もっと前から、本棚にはあったけど読んだのは多分そのぐらいの時、ちょうど友達関係がちょっと複雑になってくる年頃だったように思う。
子ども心にもドキッとする内容だった。
当時まだ多少は貧富の差というものが世の中にあった時代で、服装とか身だしなみがきちんとしていないためにクラスの中でなんとなく敬遠されている女の子がいた。そしてわざと疎外するというのではなくても、その子に積極的に近づいていこうという気持ちにはなれない自分がいた。ある時、先生に仲良しの子と二人呼ばれ、「あなた達は○○さんに親切だから、遠足でも一緒にお弁当食べてあげてね。」と言われ、「ハイ」とは答えたものの当惑して顔を見合わせてしまった私たち。結局私たちの当惑を先生も感じていらしたのか、遠足のお弁当は先生を中心にその子も一緒に何人かで車座になって食べたっけ。
そんな後ろめたさを抱えていた時期だったから、マディーの後悔に共感を覚えた。
引っ越したワンダにマディーとペギーが手紙を書くシーンでは少しほっとした気分になったし、クラスに当ててお返事が来て絵をもらう場面では自分までなんだか許されたような気がした。

大人になった今読み返してみると、当時とても暗い子だとばかり感じていたワンダは、想像力にあふれた感性豊かな女の子だったのだと思う。自己中心的で嫌な子だと思ったペギーにだって、どこかやましく思う気持ちがあったからこそワンダに会いに行こうとしたのだろうし・・・。全く救いのないお話っていうわけではなかったのに、何故あの時私はあんなにショックだったのだろう。多分、自分の中にも後暗い気持ちが潜んでるっていうことに、生れてはじめて気づいたせいかもしれない。

この本がはじめて日本に紹介されてから50年ということで、百歳を迎えられる石井桃子さんの手で訳が新しくなり、「百まいのドレス」として生まれ変わった。
でも、それだけ長い時間を経ても、悲しいことにこの本のテーマは決して古くならないどころか、ますますup to date な問題となりつつある。自分と異質のものに対する排斥・・・
この本を読んで、ただ傍観者であるということもとても恥ずべきことなんだという事を私は学んだような気がする。いまを生きる子供たちも気づいてくれるかしら?

J1 J2 J3
私が実際に読んだ版(右)と新しい版(左)。 訳語も軽快になったし、全体的に新しい版のほうが明るいイメージ。ただ、写真でもわかるように、左右が逆になっている挿絵が多いのはどうしてかしら?
今回の新版では、あとがきで、≪岩波の子どもの本≫のシリーズ創刊の経緯や当時の雰囲気などもうかがい知ることが出来て、これも石井桃子さんがご健在でいらっしゃるからこそと、本当に嬉しい気持ちになった。

百まいのドレス 百まいのドレス
エレナ エスティス Eleanor Estes Louis Slobodkin

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2007年2月28日 (水)

金のニワトリ

作:エレーン・ボガニー 訳:光吉 夏弥 絵:ウイリー・ボガニー
岩波の子どもの本(象)

むかし、むかし、ある国に・・・とお話ははじまる。
その国を治めているのはダドーンという王さま。若い頃にはいくさが上手でさんざん暴れまわったものの今ではすっかりお年をめして、美味しいごちそうをたらふく召し上がっては大きな羽ぶとんのベッドでお昼寝をするというご機嫌な毎日。
そんな幸せそうな王さまを見て、面白くないのが、“くらやみ山”に住む悪い魔法使い。王さまを不幸に陥れようと手下を呼び集めて、平和なダドーン王の国へ攻め込ませる。
まほう使いの軍隊は北かと思えば南、東かと思えば北といった具合で神出鬼没、ダドーン王の軍隊は敵にめぐり合うことさえ出来ない。
王さまもおちおち昼寝を楽しんでいられなくなり、賢い学者を呼び集めて会議を開いてみたものの議論は空転するばかり。とうとう王さまはかんしゃくを爆発させてしまう。

そんな時、王さまの前にひとりの年寄りがすすみ出て、一羽の金のニワトリを差し出して言う、このトリをお城の塔のてっぺんに止まらせておけば、国中の見張りをし国に危急があれば知らせると。
半信半疑の王さまがためしにトリを塔のてっぺんに止まらせてみると、トリは国中の平和を告げ、王さまは大喜び。年寄りに「何なりとすきなものを、言うがよい」というのだが、年寄は「そのお約束は、忘れはいたしませぬ」と王さまの前を下がる。これが後々・・・

それから、何のこともなく、一年経ち、二年経ち・・・王様はもとどおりの安穏な生活を取り戻し、そればかりか一人息子のイゴール王子は美しいタチアナ姫をお妃に迎える。
そんなある日、金のニワトリが大声で鳴きだす。
     コケコッコー!目をさませ!
     となりのてきが、せめてくる!
     さあ、さあ、やりとれ、刀とれ!
     みんなで、国をまもりなさい!
     コケコッコー!コケコッコー!

さぁ、国中大騒ぎ!年とった王さまの変わりに新婚の王子が出陣していくのだが・・・

            * * * * * * * * * * * * * * * *

もともとのプーシキンの物語詩は、もっと風刺的な色合いの濃いものだったと聞くが、私は恥ずかしいことにもともとの詩を読んでいないし、この物語を題材に採ったリムスキー・コルサコフのオペラも見たことがない。プーシキンはその後、高校生の頃オネーギンとスペードの女王を読んだくらい・・・。
この絵本そのものは、そんな風刺的な色合いはかなり薄められているように思うが、安逸に流れ場当り的に問題を処していく為政者って・・・やっぱり、大人になると寓意的なものは感じてしまう。でも、こどもの頃は、ちょっと不思議な感じの、でもハッピーエンドの楽しいお話だと思って読んだ。

・・・が、この本に惹かれたのはなんといっても挿絵。パステルな色調の多い子供向けの本にはめずらしいはっきりとした色彩、エキゾチックでクラシカルな絵が子ども心にも印象的だった。(表紙はこちらでご覧いただけますが、中にはもっと美しい挿絵がたくさん・・・)
王様の食卓、その食卓をまかなう厨房の様子、いかにもふっくらとした王さまと、対照的にやせぎすな魔法使い、王子様もお姫さまも美しいし、そこに描かれるコスチュームもステキ、大人になった今読み返しても飽きずにながめてしまう。

いまは絶版になってしまっているらしいが、復刊してくれればいいのに・・・

                                        (初読7歳ぐらい)

4001100363 金のニワトリ
エレーン ポガニー Elaine Pogany Willy Pogany
岩波書店 2000

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2007年1月25日 (木)

飛ぶ教室

作:エーリヒ・ケストナー 訳:高橋健二 絵:ワルター・トリヤー
ケストナー少年文学全集4 岩波書店

舞台はキルヒベルクの高等中学、クリスマスを前に『飛ぶ教室』という劇の稽古に励んでいる寮生活の五人の少年達を中心に物語りは繰り広げられる。
ヨナタン・トロッツ(ヨーニー)は文学の才能に恵まれ、将来は文学者を夢見ている。『飛ぶ教室』の作者でもある。
マルチン・ターラーは首席だが正義感に溢れ、上級生の横暴には敢然と立ち向かう。絵の才能にも恵まれ、今回の劇では舞台画家も勤めている。
ウリー・フォン・ジンメルは金髪で小柄な貴族生れの少年。劇では少女役を演じることになっている。
マチアス・ゼルプマン(マッツ)はボクサー志望。いつもお腹を空かせていて勉強は不得手だが、ウリーとは特別の友情で結ばれている。
ゼバスチアン・フランクはクールで理知的な少年なのだが、その頭のよさゆえになかなか人には理解されにくい一面も持っている。
一見元気一杯の少年達だが、それぞれに心の中に抱えているものもある。
今はもう亡き祖父母が待っているからと、ドイツ行きの船に乗せられたヨーニー。
家が貧しく、半給費生としての生活を送っているマチアス。
自分は臆病者なのではないのかと悩んでいるウリー。
それぞれ悩みの質は違っても、本人達にとっては切実な問題・・・。

多くの少年達が集う高等中学、同じ街の実業中学の連中とは昔からの因縁もある。
劇の練習の最中、通学生のクロイツカムがみんなの書き取り帳を奪われ彼自身も人質にとられたの知らせが飛びこんでくる。クロイツカムと書き取り帳を奪還すべく、マルチンを先頭に少年達は飛び出してゆく。少年達の相談相手”禁煙先生”(学校近くの菜園に禁煙専用の客車を持ち込んで住まいにしていることからそう呼ばれている彼だが実はヘビー・スモーカーだ)の助言もあって少年達は一対一の試合で決着をつけることにする。
高等中学側の代表はもちろんマッツ、タフな試合の末マッツが勝利するのだが、実業学校側の連中は負けたら人質と書き取り帳を返すという約束を覆してしまう。結局、今度は雪合戦をいどみ劣勢に見せかけて時間稼ぎをしている間に、人質を取り返すという作戦に出てクロイツカム奪還には成功するのだが、書き取り帳はすでに焼かれた後だった。
寮を抜け出して戦いに参加した少年たちは舎監の”正義先生”(ベク先生)のところへ出頭するのだが、事情を知った正義先生は五人に罰とも思えない軽い罰を言い渡し、自分がどうして母校の教師になろうと思ったか、少年時代のエピーソードを話して聞かせる。少年達はそのエピソードの中に出てくる正義先生の友人が誰なのかに思い当たり、クリスマスに素晴らしい邂逅を用意する。

雪合戦でも臆病さゆえに自分の役目を全うできなかったと思いこんだウリーは、通学生によって紙くずかごに入れられ地図をかける釘に高くつるされるといういたずらにあったこともあってある決心をする。ウリーの思い切った行動とその結果に、学校中が騒然とするのだが・・・
マルチンはクリスマスに帰省する交通費が送れないことを告げる手紙を受け取って、とても悲しい思いをする。彼は父と母をとても愛していたので、クリスマスをともに過ごすことをとても楽しみにしていたのだ。「泣くこと厳禁!」彼は心の中でそうくりかえし自分の悲しみを友人達に悟られまいとする。

そんな中、クリスマスはやってきて『飛ぶ教室』は上演される。そして・・・

               * * * * * * * * * * * * * * *

こどもの頃この物語を読んだ時、禁煙先生の客車暮らしとか、少年達の寮生活、そして雪合戦の場面などを、ワクワクしながら読んだ。
少年達が禁煙先生と正義先生を再会させるシーンが1番のお気に入りで、マチアスのエピソードは「正義先生ってなんてステキな先生なんだろう」って感動したものの、マチアスの健気さが胸に迫るというほどでもなかった。
少年達が上演した『飛ぶ教室』の中に出てくるイタリア・エジプト・北極と世界中を経巡る地理の現地授業に憧れ、親許離れて過ごす寮生活も悪くないんじゃないかと想い、電車に乗るたびここを住まいに改装するとしたらと想像を逞しくし、そういう面に惹かれたものの、他の作品に比べてピリッと効いた風刺やウィットはちょっと物足りないかな・・・と。
根はいいヤツ?な美少年テオドル、敵ながら潔い実業学校生のエーガーラント、個性的なクロイツカム父子といった登場人物も印象深く、少年達の楽しい冒険物語のように感じて読んだ。

それが、大人になって読み返してみるとなんだか全く印象が違った。
なんといっても少年達の健気さにグッときてしまった。後半のマルチンのエピソードのあたりは特に・・・。失業したマルチンの父親に誠実で優れた職人であったが商売人としてはあまりにも不器用だったケストナーの父の姿が重なるような気がする。あまりにも親密な母子関係の影に隠れがちだった父(実の父ではなかったとの説もあるが)への情愛が見え隠れすれするようにも思える。
クリスマスにぴったりの気持ちが暖かくなるお話・・・マルチンのエピソードはもちろん、少年時代の正義先生とお母さんの挿話も、こちらは母親思いのケストナーの少年時代を反映しているように感じられ、ケストナーが少年時代の彼自身に贈るクリスマスプレゼント・・・そんな感じさえした。

最後に「いじめ」という言葉をよく耳にする昨今、とても考えさせられた台詞を一つ。
これはウリーがゴミ箱に入れてつるされてしまった時の、クロイツカム先生の言葉。
おこなわれたいっさいの不当なことにたいして、それを犯したものに罪があるばかりでなく、それをとめなかったものにも罪がある
                                   (初読 四年生の頃)

ひとり言:八月以来の更新になってしまいました。決して放棄しているつもりはないのですが・・・
このおはなしはお正月に録画していた映画を見てから読み直しました。映画は舞台が原題というだけではなくストーリーも大分変更されていたように思います。今回読み返してみて、子どものころと物語を見る視点が違っているように感じました。

飛ぶ教室 飛ぶ教室
エーリヒ ケストナー Erich K¨astner 池田 香代子


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2006年8月15日 (火)

ツバメ号とアマゾン号

作・絵:アーサー・ランサム 訳:岩田欣三/神宮輝夫
アーサー・ランサム全集1 岩波書店

「オボレロノロマハノロマデナケレバオボレナイ」この電報で冒険は始まる。
ジョン、スーザン、ティティ、ロジャの四人の兄弟に、湖の島でのキャンプのおとうさんの許可が下りたのだ。直ちに船員雇用契約書が作られ、船長ジョン、航海士スーザン、AB船員ティティ、ボーイはロジャとそれぞれの役割が決められる。船はもちろん“帆船”ツバメ号だ。
“発見の航海”への準備が整い、“海”へと漕ぎ出したとたん、おかあさんだってもう“土人”だ。そう、たとえ「いちばんよい土人」であっても…。島の近くには、毎朝新鮮な牛乳を取りに行くことになっている“土人”ディクソンさんの農場もあるし、オウムを飼っている“海賊”の住んでいる屋形船だっている。

釣りをしたりの島のあちこちに名前をつけたりのキャンプ生活にも慣れた頃、四人は湖にもう一つの帆影を見つける。帆影は見る間に島へと近づいてきて、マストの上に「どくろとぶっちがいの骨」が描かれた旗を掲げる。これこそが“アマゾン海賊”ナンシイとペギイの二人だった。
そっと跡をつけたり出し抜かれたりの遣り取りのあと、ツバメ号の一同とアマゾン号の海賊達は、お互い船を“分捕り”合い、それに決着がついたら“フリント船長”(アマゾン号の二人の叔父、二人のいたずらをツバメ号のいたずらと勘違いしている)に対してともに戦うという“攻守条約”を結ぶ。

だが“フリント船長”ことジョン船長の屋形船を狙っているものは子ども達のほかにもいるらしく、炭焼きを見学に行って言付けを頼まれたジョンは屋形船にその事を伝えに行くのだが…

            * * * * * * * * * * * * *

このおはなしを初めて読んでもらった頃、私は7歳で弟はまだ4歳だった。毎晩寝る前に少しづつ読んでもらったものだった。知り合いのお兄さんの「お下がり」で戴いたこの上下二冊の岩波少年文庫に私たちはたちまち夢中になった。
その頃叔父がヨットをやっていて、夏ともなれば真っ赤に日焼けして、私たちはそんな叔父の背中の皮を剥かせてもらう(失礼!)を楽しみにしていて母や祖母に嫌われていたっけ…。ヨットは大人のものと思っていたのに、そのヨットを子ども達だけで操るなんて…そしてヤマネコ島でのキャンプ生活、なんて素敵なんだろう。私たちなんか、叔父が「一緒に来てヨット見るか?」誘ってくれても土人…いえ、母たちに却下されたのに・・・なんて素敵な生活!と、本の中の子ども達にあこがれた。フリント船長にあんなひどい事言われたのに、毅然とした態度で応じるジョン。私だったらプンプン怒っちゃって、口も利かないだろうなと感心もした。そして、出て来るメンバーの中でいちばん好きだったのはティティだった。

この本の中の夏休みはたちまち私達と弟の憧れとなり、なんとか真似してみたいと思った。
母の実家は横浜にあって、平屋の母屋からでは見えなかったが、「勉強室」と呼ばれる別棟の上にある「物干し」に登ると海が見えた。あの夏、弟は5歳になり私はもう少しで8歳、「物干し」は私たちにとってヤマネコ島だった。「土人」の配慮でパラソルの立てられたヤマネコ島?で、私たちは多くの時間を過ごし望遠鏡で海を眺めたり、本を読んだりした。「ペミカンケーキ」ならぬコンビーフ入りのハッシュドポテトのお昼(もちろん飲み物はミルクティー)を運び上げてもらって食べたりもした。さすがに、そこで寝ることは許されなかったが、母屋ではなく「勉強室」に二人だけで泊まった。アマゾン号の面々にはお祭りに泊まりにやってくる従妹達を想定していた。何かもの想うこともなく、とても楽しい夏だった。次の年もその次の年も、こんな夏がずっと続くと思っていた。
だが次の夏、弟は何故か高いところに登るのを億劫がり、私がいくら誘っても涼しいところで本を読んだり絵を描いたりするほうを好んだ。
そして11月……二人で楽しみにしていたランサムの新刊「シロクマ号となぞの鳥」が手許に届いた時、たった一週間のちがいで、もう彼がその本を手にすることはなかった。
その後すぐ、海も埋め立てられ電車が走り、ドルフィンの辺りまで登れば海は遠くに見えるものの、「物干し」に上がっても、もう海は見えなくなった。手をのばせばすぐそこにある海はなくなった。
四年生になって今の弟が生れた頃「宝島」を読み、フリント船長やオウム、八銀貨といった文字が躍っているのを見て、「あぁ、これだ…」とは思ったが、それでもこのおはなしを読み返してみたいとは思わなかった。私ひとりで読んでも、半分も面白くないような、そんな気がした。

次にこの物語にめぐり合ったのは高校三年の夏、勉強に通っていた図書館。息抜きに眺めた書架にアーサー・ランサムの全集があった。懐かしさに本をパラパラとめくってみたら、あの懐かしい夏がそこにあった。今度は、全集を一気に読んだ。それ以来、夏になると読み返したい本だったのだが、今回はずいぶん久しぶり。
今回読み直してみて、土人(大人たち)と子ども達の関係というか、距離のとり方がなんとも素敵。そして“ノロマ”の意味・・・冒頭の「オボレロノロマハ・・・」の電報、おとうさんの子どもたちに対する信頼をあらわす言葉なんだなって、つくづく感じ入った。
それにしても、こどもの頃を思い出してとても感傷的な気持ちになったのは、歳のせいかしら…?

ひとり言・・・今回初めて原書に挑戦、native-seamanがAB船員と訳されていたり、nativeが土人と訳されていたりしたのを知ってちょっと新鮮。allianceとtreatyのなんていう単語、学生時代以来かも!海洋小説に使われているような専門用語?が随所にちりばめられているのも楽しい発見。Parleyという言葉に思わずニヤッとしてしまったのは、やっぱりあの映画のせい?

400115031X ツバメ号とアマゾン号
アーサー・ランサム 岩田 欣三 神宮 輝夫
岩波書店 1967-06

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2006年6月15日 (木)

にんぎょひめ

作:アンデルセン 訳:平林広人 絵:いわさきちひろ
世界童話文学全集4 アンデルセン童話集より 講談社 
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作:アンデルセン 訳:大畑末吉 絵:初山滋
おやゆび姫 アンデルセン童話選Ⅰより 岩波書店


人魚のお話をもう一つ、おなじみにんぎょひめのお話。

深いふかい海の底、六人姉妹の末娘として育った人魚姫は、海の上の世界に憧れ、海の底から浮かび上がって自由に泳ぎまわることができる十五の誕生日を待ちかねて暮らしていた。姉姫たちが十五になって海の上の世界で見聞きしてきたことを聴くにつけ憧れは募るばかり。
Ningyohime1 いよいよ十五の歳になって、海の上に昇っていくことが許された人魚姫が目にしたものは、船の上で開かれている年若い王子の誕生祝の宴。人魚姫はその若く美しい王子から目を話すことができなくなってしまう。やがて宴も果て船室の中がすっかり静かになった頃、海に嵐がやってくる。水夫達の努力もむなしく船は波にさらわれて横だおしになり王子も海に投げ出される。そんな王子を人魚姫は必死の努力で岸へとつれてゆくのだが、打ち上げられた砂浜で気がついた王子が目にするのは、鐘の鳴る大きな白い建物に住むひとりのわかい娘。
無事を見届けて海の底へと帰ったものの、人魚姫は王子が忘れられない。日ごとに想いは深まってゆく。ついには意を決して海の魔女のもとを訪ね、人間の姿になり王子の心と不死のたましいを得たいと願う。その代償に魔女が要求したのは人魚姫の美しい声。
Ningyohime2 人間の姿になる代償はそれだけではない。人は仕事に、鋭いナイフを踏んで血を流すような痛み、そして・・・王子の心を得ることがかなわなければ、その婚礼の翌朝に水の上のあわとなってしまう運命。
大きな犠牲を払って、人魚姫は王子の許での生活を手に入れる。王子も姫を「かわいい拾いっ子さん」といって身近に置き慈しむ。しかし、その王子の気持ちは、人魚姫の求める愛ではなく・・・

               * * * * * * * * * * * *

何度読んでもせつない、悲しい初恋の物語。子どもの頃の私には、この結末はちょっと受け容れがたいものだった。あまりにも大きすぎる犠牲を払ったにもかかわらず実らぬ想い。せつなすぎる・・・
それでもこのお話の救いは、なんとか姫を救おうと一生懸命になる五人の姉姫や、遠くから姫の身を案じる父王やおばあさまの存在だろう・・・と、大人になった今になるとそう思える。望んだ愛は得られないものの、肉親の大きな愛情に包まれている人魚姫。愛に殉じ、空気の精となってしまう人魚姫だが、その家族の大きな愛があることを思う時、この物語にはどこか救いがあるように感じる。そして物語の終わりかたには、この物語を読んでもらった子ども達が、「にんぎょひめが早く神さまの国に行けるよう、いい子にしてましょうね」って言われている、そんな家族の団欒の光景も思い浮かぶ。

私がはじめてこの物語を読んだのは小学一年生の頃、講談社の世界童話文学全集の中の一冊にこのお話がはいっていた。上に紹介したのは、その中の挿絵だが、なんといわさきちひろさんの絵だ。ちょっとイメージが違う?いわさきちひろさんは、後に偕成社から曽野綾子さんの訳で「にんぎょひめ」を出版なさっている。その絵本も目にしたことはあるのだが、この講談社の挿絵の方が、心なしか人魚姫が大人っぽいような気がする。手許にあるもう一冊の岩波の版のほうは初山滋さんの絵で、この挿絵も好きなのだけど、私にとって人魚姫はやはり子どもの時に手にした方のいわさきちひろさんの絵のイメージなのだ。
子どもに絵本をあげるときって、やはりよく選ばないとそのイメージが大人になってからも離れないのかもしれない。この世界文学全集はどの巻も大好きだった。子どもの時に沢山の素敵な本に出あえた事は、両親に感謝するべきなのかな?こどものときはそれが当然と思っていたけれど・・・

ひとりごと・・・この物語のBGMにはブルグミュラーの18の練習曲から「空気の精」などいかが?船が遭難する場面では同じく「大雷雨」かしら?

にんぎょひめ にんぎょひめ
アンデルセン 曽野 綾子 いわさき ちひろ


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赤い蝋燭と人魚

作:小川未明 絵:いわさきちひろ
人の絵本 童心社

Mimei_1 北の海に一人さびしく住む人魚は、せめて生れてくる子どもにはこの寂しさを味あわせたくないと思う。そして、この世界の中でいちばんやさしいものだときいている人間にわが子を託そうと決心する。
人魚の子を拾ったのは年寄りの夫婦。お宮のある山の下にある店で、おじいさんが蝋燭をつくり、おばあさんがそれをあきなって暮らしている。夫婦は拾った赤ん坊が人間の子ではないと知っても、「いいとも、なんでもかまわない、神様のお授けなさった子どもだからだいじにして育てよう」そう心に決める。
その言葉通り大切に育てられた子どもは、黒目がちな美しい、おとなしいりこうな娘に成長する。ある日娘は、思いつきで蝋燭に絵をかいたらみんなが喜んで買うだろうと、蝋燭に絵をかきはじめる。娘が絵をかいた蝋燭はみんなに受け、その蝋燭をお宮にあげてその燃えさせしを身につけて海に出ると、どんな大暴風雨(おおあらし)の日でも遭難しないと評判になる。娘は、手が痛くなるのもがまんして赤い絵の具で蝋燭に絵をかき続ける。
ある日、南の方の国から香具師がやってくる。香具師はどこからききこんだものかそれとも娘の姿を目にしたものか、娘が本当の人間ではなく人魚であることを知る。香具師は、人魚は不吉なものとふきこみ、大金をちらつかせて言葉たくみに娘を売るよう年寄り夫婦を説き伏せてしまう。
Sred_1 そのことを知った娘は、部屋に閉じこもって身の行く末を思って悲しみながらも蝋燭に絵をかき続けていたのだが、欲で心のこわばってしまった年寄り夫婦はそんな娘をいじらしいともあわれとも思わない。ついに鉄格子のはまった四角い箱を車にのせて香具師が迎えに来る。娘は赤くぬった蝋燭を、悲しい思い出の記念(かたみ)に残してゆくのだが・・・

               * * * * * * * * * * * *

このお話をはじめて読んでもらったのは、小学校の低学年の頃。母の実家にあった古い本だった。ただただ、人魚の娘がかわいそうで、なんてひどいおじいさんとおばあさんなんだろうとすごく憤慨したのを覚えている。
童心社のこの絵本を手にしたのは、大学を卒業してもう大人になってからだったと思う。
それでもやはり、この老夫婦の変心には肯んじられない思いがした。人間の持つ二面性、それは理解できる。それでも慈しみ育んできた者をあんなに酷くできるものだろうか?それも人の性と言うべきなのかもしれないが、あの変節はあまりにも悲しい。今読み返してみても、その印象だけは変らない。
北陸の冬の暗く猛々しい海を思い起こさせる作品だと思う。
作者の小川未明は、「日本のアンデルセン」とも評されているようだ。未明の作品をそれほど多く読んだことがないのでその評が言いえているのかどうかはわからない。ただ、その文章は印象的だ。
北方の海の色は、青うございました。
その人魚は女でありました。そして妊娠(みもち)でありました。

日本語ってなんて美しいんだろう、こんな表現もあるんだ・・・と今回そう感じて印象を新たにしながら読んだ。でも、
子どもから別れて、ひとり、さびしく海の中に暮らすということは、このうえもない悲しいことだけれど、子どもがどこにいても、しあわせに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。
こう思いさだめた人魚の母の心情を思うとき、あの結末はあまりにも哀しい。人魚の怒りと絶望は察するに余りある。

この本は、同時に画家・いわさきちひろさんの絶筆とのこと。蝋燭をかく娘のラフなスケッチのあどけなく悲しげな表情は、まるでいわさきちひろさんがさようならを言っているかのようにも感じられる。置かれた環境こそ違え、苦しみに耐えながら絵をかき続ける人魚の娘の姿にいわさきちひろさんの姿がかさなるように思えるからだ。奇しくも、人魚が生れた北の海は、ちひろさんの生れたという福井の海だ。
私は、小さいときからいわさきちひろさんの挿絵のある本で育った。五十六歳でなくなってもうだいぶ経つけれど、今でもやはり早過ぎる死が惜しまれる。

4494021172 赤い蝋燭と人魚
小川 未明 いわさき ちひろ
童心社 1975-06

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2006年6月14日 (水)

絵のない絵本

作:アンデルセン 訳:山室静 絵:岩崎ちひろ
童心社

Enonaiehon_2月の光は、どんな細い隙間からでも差し込み、さまざまな事を照らし出す。 そんな月が若くて貧しい画家のもとを訪れて、話して聞かせる三十三の物語。

第一夜は、頼りないランプの灯に、恋人の無事を祈るインドのむすめの姿。
第三夜は、田舎の牧師館の庭で遊んでいた薔薇のような少女が、やがて舞踏会にデビューし、金持ちの商人の妻となり・・・そして、曖昧宿の窓辺でひっそりと迎える最後。
第五夜は、生れたときに「この子はフランス国王の玉座の上で死ぬだろう」と予言され、革命のさなか重症を負い玉座をベッド代わりに死んでいった少年とその祖母の哀しみ。
第十一夜は婚礼の宴を終えたばかりの花嫁と花婿の幸せに満ちた光景。
第十六夜は見かけとは相反する豊かな内面みずみずしい魂を持ちながら、想いをうちに秘め、悲しみと絶望さえも陽気さの中に塗りこめて、道化を演じ続けるポリチネロ(道化役)の悲しい恋。
第十七夜は、新しい青い服とばら色の帽子をもらった四つになる女の子の喜びにあふれた様子。
第二十六夜は、生れてはじめて煙突の中をてっぺんまで登りつめて、頭を上に突き出して「ばんざぁい!」と叫ぶ煙突そうじの少年。
第三十夜は宿屋の馬小屋の中で眠る、旅わたりの音楽家の一家。
そして第三十三夜は「どうかパンの上には、バターもどっさりつけてね」とお祈りにつけくわえた幼い女の子。

               * * * * * * * * * * * *

月の光が照らし出して見せる光景はじつにさまざまだ。そして、アンデルセンの文章はまさにスケッチそのもの。
でも、その一枚いちまいのスケッチの向うに、私たちはいろんな人生を垣間見る。
あのインドのむすめの婚約者は戦いに出ているのだろうか?あの牧師館の少女は、なにがあってあそこまで身を落すことになったのだろう?あぁ、第十夜のあの老嬢の最後は、何となくモーツァルトの最後を思わせる・・・幼い兄弟のもとにコウノトリが運んできた赤ちゃんにはどんな人生が待っているんだろう。スイスの修道院のあの若いシスターの涙の理由は?わが子が熊使いのクマと一緒に楽しく遊んでいる光景を目にした母親の心境はどんなだろう・・・
一枚のスケッチから、私の中で物語りはどんどん膨らんでゆく。
舞台もインド、ポンペイ、ローマ、チロル、砂漠の隊商・・・旅から旅の人生を送ったアンデルセンらしく世界各地に広がっている。

水墨画風に描かれた岩崎ちひろさんの挿絵も、イメージを邪魔することなく、物語が私の中で膨らんでいくにつれ、色鮮やかにすら感じられてくる。実際には白と黒の濃淡の世界なのに・・・ローマの遺跡に住み、頭にのせたかめを割って泣いている少女のあどけない姿など、愛おしくって、大丈夫よって慰めてあげたくなるくらい。

人間は生れて、生きて、死んでいく。どれ一つとして全く同じ人生などない。今はあどけなく幼いこどもでもいつか必ず老いがやってくるし、絶頂の人生もいつしか移ろってゆくのかもしれない。月の光はどんなものをも平等に照らし、死もまた誰のもとにも平等に訪れる。この本ってこんなに深い本だったんだ・・・
              (初めて読んだのは、挿絵の愛らしさに惹かれた中学生の頃)

4494021016 絵のない絵本
アンデルセン
童心社 1966-11

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2006年4月26日 (水)

イルカの家

作:ローズマリー・サトクリフ 訳:乾侑美子 絵:ウォルター・ホッジズ
評論社

物心もつかないうちに両親をなくし、九歳にもならないうちに、これまで育ててくれたおばあさんをもなくしたタムシンは、ロンドンのギディアンおじさんの家に引き取られる。
鎧作りの親方のギディアンおじさん、あたたくてきれいなデボラおばさん、もうお父さんに弟子入りしている十四歳のピアズ、タムシンとは歳も近いベアトリクスとジャイルズの姉弟、まだ幼い「ちびちゃん」、穏やかな家庭に迎えられ、ロンドンでの生活は順調に滑り出す。
それなのに、タムシンの心はどこかさびしい。自分はこの家族の本当の一員ではないという想いと、大きな帆船で海へと乗り出し、知らない世界を見たい・・・男のだったら・・・という、故郷に置いて来た想い。
だが、ある日、タムシンは自分と同じ“想い”を共有する同士の存在に気づく。それはピアズ・・・ピアズもまた、船乗りになりたいという自分の気持ちに蓋をして暮らしていた。海でたまま戻らなかった兄の存在があったために、これ以上両親を悲しませたくなかったのだ。そんなピアズの存在とやさしさが、タムシンにとっては何よりの支えとなっていく。
そんななか、聖ヨハネの日に知り合った不思議な「魔法使いのおばあさん」がタムシンにくれた、チューリップの球根の開花とともに、一家に喜びがやってくる。
それはクリスマス・イヴの夜のこと・・・

            * * * * * * * * * * * * 

この物語には、十六世紀の四季折々のロンドンの下町の暮らしが、実にやさしいタッチで綴られている。復活祭、メイフェア、ヘンリー八世とアン・ブリンの船列・・・、。ハロウィーンの日にデボラおばさんが炉辺で語る「若いタム・リン」のお話も、挿話にしてしまうのがもったいないくらい見事だ。
だが、なんといってもこの本で、私が一番ワクワクしたのは、ピアズとタムシンが航海に出るシーン。床に白墨で線を引いただけの甲板、つぶれた錫の水差しの大砲、タツノオトシゴの船首像。それでも、<イルカと冒険の喜び号>の繰り広げる航海は、どんな帆船小説の航海にもひけをとらない、本物の航海だ。ホッジズの描く挿絵も素晴らしい。まるで映画『タイタニック』の有名な一シーンのよう。(この物語は1951年に発表されているので、ホッジズの挿絵の方がずっと以前に書かれたのだと思うが・・・)
このような素晴らしい航海を、サトクリフはもしかして海軍士官だったお父様のお膝の上で体験したのだろうか・・・思わずそんな想像をしてしまった。デトフォードの王立造船所のシーンなども、とても活き活きと語られて、シアネスの海軍工廠で暮らしたサトクリフならではと思える。
やさしくて、でも厳しいときには厳しいという美しいデボラおばさんにも、なんとなくサトクリフのお母様の印象が重なる。
いつもとは違う穏やかな物語の展開に、平坦なものではないにしろ、やはりサトクリフは幸せなこども時代を過ごした人なのだと実感する。
ただ、幸せな結末の中、ピアズを送りだすタムシンの気持ちを考えるとき、やはり切ない気持ちは残る。     (再読日記・・・の看板ですが、これは最近読んだ一冊)

ひとりごと・・・何となく、シューマンの子どもの情景をバックに流したくなるこの作品。
黒い髪、黒い瞳、そしてとても色が黒いというタムシンの描写、母親のことについて触れられていないことも併せて考える時、彼女の出自について何となく疑問が・・・ウーン、どうなのかしら?

イルカの家 イルカの家
ローズマリー サトクリフ Rosemary Sutcliff 乾 侑美子


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2006年3月30日 (木)

朝びらき丸 東の海へ

作:C.S.ルイス 訳:瀬田貞二 絵:ポーリン・ベインズ
ナルニア国ものがたり3  岩波書店

カスピアン王子との冒険から一年、エドマンドとルーシィの二人はいとこのユースチスの家で夏休みを過ごすことになる。ユースチスはとてもいやみでなさけない少年、エドマンドとルーシィが懐かしくナルニアの話をしているのを立ち聞きして、二人をからかってやり込めようとする。・・・と、壁にかかっていた船の絵が次第に本物の波の上をうねっているように動き始めたかと思うと、子どもたちは絵の中の世界へと引き込まれてしまう。
海の中に投げ出された三人は、船に助け上げられる。船に乗っていたのは、王となったカスピアンだった。ルーシィ達の世界とは時の流れが違うナルニアではあれから三年が経っていた。カスピアンは、かつて叔父ミラース王によって追放された七卿を探す航海に出たのだ。三人はカスピアンと一緒に東の海へ航海に出かけることにはるのだが・・・
ユースチスは突然放り込まれたナルニアの世界に打ち解けることができない。知識の本と参考書しか読まない彼には、ものいう動物の存在を受け容れることなど到底出来ようはずもなく、ねずみながらに誇り高い騎士の心を持つリーピチープとは会った途端に天敵同士になってしまう。
離れ島諸島でベルン卿と無事にめぐり会う事が出来た一行は、未知の東の海へと更なる航海を続けることとなる。大嵐を乗り越え次にたどりついたのは「竜の島」、ここでの体験はユースチスの態度に劇的な変化をもたらす。身勝手な理由から一行を逃げ出した彼は竜に変身してしまい、今までの自分を反省しみんなのために役に立つ事に喜びを覚え、人に好かれ自分もまた人を好きになるという楽しさを知ったのだ。
その水に触るものをすべて金に変えてしまう湖のある「死水島」、ちょっと風変わりな小人達が主人の魔法使いとともに住む「のうなしあんよの島」、悪夢が現実となるという「くらやみ島」、と七卿の足跡を辿って、朝びらき丸はついに最後の三人が魔法で眠り続けている島へと到達する。そこで告げられた三人の眠りを解く方法とは・・・そしてリーピチープの決心は・・・

            * * * * * * * * * * * *

子どもの頃、この「朝びらき丸・・・」と「馬と少年」のお話は特に好きだった。(「ライオンと魔女」は別格だけど・・・)次々と繰り広げられる冒険に夢中になった。特に竜の島のエピソードと頃は大好きで何度も読み返した。「なんて嫌なヤツ!」と思った変身前のユースチス、リーピチープにやり込められるシーンでは「いい気味!」って愉快になった。でも大人になった今、そう憤っていた当時の私にちょっと聞いてみたい。「あなたには、ユースチスみたいな身勝手なところ全然なかったのかしら?」ユースチスに限らず、ルーシィが誘惑に負けてお友達の話を立ち聞きしてしまうシーン、女の子ならみんな覚えがあるはず。そういえば、この物語「誘惑に負けてはいけない」っていう教訓が随所にちりばめられているようにも思う、子どもの時にはあまり考えてもみなかったけど・・・。
最近、帆船小説ファンの私は、この物語を読み直してみて帆船小説としてもよく出来ていると感心してしまった。ルーシィが船に助け上げられる場面の描写や、嵐のシーンの描写、ドーン島でのどれい貿易のエピソード、他にも様々な所でしっかり帆船小説のスタイルを踏襲している。そういえば帆船小説っていうジャンルもイギリスの独壇場(私の知る限り)?「ライオンと魔女」のあとがきで訳者の瀬田貞二さんは、カスピアンの航海をドン・エンリケの時代の航海になぞらえていらした。確かに、地図もない未知の世界を航海するという点では、カスピアンの航海は、大航海時代初期のそれに近いものがあるのかもしれない。ただ、十字架と王冠の名の下に富と覇権の拡大を目的とした航海と一緒にしては、「こころざしが違う!」ってリーピチープに怒られちゃうかしら?

朝びらき丸東の海へ ナルニア国ものがたり (3) 朝びらき丸東の海へ ナルニア国ものがたり (3)
C.S.ルイス 瀬田 貞二

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2006年2月24日 (金)

ロージーちゃんのひみつ

<絵本>
作・絵:モーリス・センダック 訳:なかむらたえこ 
幼年翻訳どうわ 偕成社

≪ひみつをおしえてほしいひとは、このとを三どたたくこと≫
こう書かれた札がかかっているロージーちゃんのおうちの扉。戸をたたいたキャシーの前に現れたのはロージーちゃん・・・ではなくて、すてきな歌手のアリンダ。キャシーは言う。「あたしもだれかになっていい?」
裏庭でショーの始まり!前座は、アラビアの踊り子チャチャルー嬢・・・そう、それはキャシー。そしていよいよ評判の歌手「アリンダ」が登場、ながいドレスに大きな羽根がついた帽子、ハイヒールまではいて。さぁ!いざ・・・ところで、消防士姿のレニー登場。男の子達はみんな「火を消す」てつだいに行ってしまう。こうなると、さっきまでの盛り上がりはどこへ?みんな帰って行ってしまう。一人になって「ひのあたるまちで」を歌うロージーちゃん。おしまいまで歌うことができたけど・・・

               * * * * * * * * * * * *

Totoko_2 この絵本に出会ったのは、大人になってからだった。だけどなんだかとっても懐かしい気もち。だって、この本に描かれる世界は、私の子ども時代そのもの。母のたんすからいろいろひっぱり出して身にまとい、さて今日の私は何の気分?ピアノの置いてある洋間に面したテラスにいすを出して客席をしつらえ、お友達とピアニストごっこなんていうのも・・・。
お友達がみんなかえってしまって一人いすの上に立つロージーちゃんのうしろすがたに、さよならって友達を見送った夕方の光景が重なる。
この本はブルックリン時代のスケッチをもとにしているとの事だが、さすがセンダック、本当に子どもをよく見ていると思う。子どもの頃の混沌とした想い、やりたいことがたくさんあるくせに、自分をどうしたらよいのかよくわからなくって、なんとなくちょっと不安で、そのくせ親という絶対的な存在にしっかり護られているという安心感・・・そういうものが活き活きとした世界の中に見え隠れしている。
子どもたちの表情やしぐさもとても好き。台所仕事をしているお母さんにしがみつく姿をみていると、懐かしい安心感を感じる。

ロージーちゃんのひみつ ロージーちゃんのひみつ
モーリス=センダック なかむら たえこ

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2006年2月23日 (木)

シェイクスピア物語 上・下

作:チャールズ&メアリー・ラム 訳:厨川圭子 白水社
Tales from Shakespeare  by Charles & Mary Lamb   Paul Hamlyn

s-Book

≪上巻≫ あらし 夏の夜の夢 冬ものがたり むださわぎ お気に召すまま ヴェローナの二紳士 ヴェニスの商人 シンベリーン リヤ王 マクベス
≪下巻≫終りよければみなよろし じゃじゃ馬ならし まちがいつづき しっぺ返し 十二夜 アテネのタイモン ローミオーとジュリエット ハムレット オセロー ぺリクリーズ

この本を買ってもらったのは、小学校三年生の冬だった。家族に悲しいことのあったその冬、父は何時にもまして仕事に忙しく、母と二人急に静かになった家の中で、私はこのきらびやかで華やかな宮廷の物語を読みふけった。
好きだった話は、「冬ものがたり」「お気に召すまま」「十二夜」・・・「ぺリクリーズ」といったハッピーエンドのものばかり、逆に「オセロ」とか「マクベス」それに「アテネのタイモン」といった悲しい結末のものはあまり好きではなかった。ハッピーエンドの物語の中には、亡くなったはずの登場人物が実は生きていて・・・というお話がいくつかあって、現実を受けとめきれない9歳の私にとってある意味逃げ場だったのかもしれない。

今考えると、男女の恋心の機微などまるでわからない9歳の子どもにどこまで理解ができていたものやら、それでもおとぎ話にでてくる王子さまやお姫様のお話の延長みたいな感覚で楽しんでいた。生れてはじめて読んだ恋愛小説?だった。
中学生になった時、気の早い母が英語の本を買ってくれたけど、これに手を付けたのはず~っとあとになってから。
恐ろしいのは、私のシェイクスピアに関する読書が殆んどこの本どまりなこと。ベートーヴェンのテンペストを弾いた時も、蜷川マクベスを観に行った時も、読み直したのは結局これ。福田恒存さん翻訳の戯曲などは、買ってはみても殆んど「積読」状態・・・。この本に取り上げられていない「リチャード三世」「ウィンザーの陽気な女房達」などは戯曲で読んだけど、結局お芝居見たほうが早かった。なんて恥ずかしい私・・・!
でも「リヤ王」「ハムレット」「ヴェニスの商人」・・・シェイクスピアの作品の有名どころは、殆んど網羅しているし、お子さんだけでなく戯曲って読み辛いって感じていらっしゃる大人の方も(私のことだけど・・・)、ストーリーの確認にいかがですか?  (初読 3年生)

403850350X シェイクスピア物語 (上)
チャールズ ラム 厨川 圭子 メアリ ラム Charles Lamb Mary Lamb
偕成社 1979-01

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4038503607 シェイクスピア物語 下  偕成社文庫 4036
Charles Lamb Mary Lamb チャールズ ラム メアリ ラム
偕成社 1979-01

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2006年2月19日 (日)

カスピアン王子のつのぶえ

作:C.S.ルイス 訳:瀬田貞二 絵:ポーリン・ベインズ
ナルニア国ものがたり2 岩波書店

衣装だんすの冒険から一年、ルーシィ達四人きょうだいは休暇から寄宿生活に戻る途中の駅で、いきなりナルニアの世界に呼び戻される。
しかし、ナルニアの世界は以前とすっかり変っている。四人は自分達がすっかり変わり果てたケア・パラベルの跡にいる事に気づいて驚く。宝ぐらには確かに以前の武器や宝物・・・でも、地形も変わってしまっている!そう、ナルニアでは四人の不在の間にそれほど長い時間が経ってしまっていたのだ。
翌朝、四人はボートで運ばれてきて水の中に鎮められそうになった小人を助ける。その小人トランプキンが語ることには・・・
ナルニアは、ピーターたち四人の王と女王が去った後しばらくしてから海を越えてきたテルマール人によって支配されているという。ものいう動物たち元からナルニアに住んでいた者たちは殺されたり追いはらわれたりし、わずかに残った者たちも森の奥深く隠れ住んでいるというのだ。カスピアン王子はテルマール人の子孫ではあるが、おじのミラース王に父王を殺され王位を横取りされたのだという。そして、ミラース王に王子が生れたためその身も危うくなったため城から逃げ出す途中、以前からのナルニアの者たちが隠れ住む森に迷い込んだのだという。古いナルニア事を物語る乳母や、小人の血を受け継ぐコルネリアス博士に育てられたカスピアンは、ものいう動物や小人たちと力を合わせて昔のナルニアを取り戻すため立ち上がった。
そのカスピアンが助けを求めて、かつてスーザンがナルニアにのこしてきた「つのぶえ」を吹いたため、四人はナルニアに呼び戻されたのだ。四人はカスピアンと力を合わせて戦うことを決心する。そしてカスピアンの所へと急ぐ途中、アスランも姿を現す。だが、アスランの姿は・・・

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子どもの頃タムナスさんやビーバーさんと再会するのを楽しみにこの巻を手にとった私は、主人公の四人と同様、ナルニアのあまりの変りように少し戸惑った。でも、カスピアンをはじめ小人のトランプキン、アナグマの松露とりなど新たなメンバーとの冒険にすぐに夢中になった。
だが、ルーシィにはすぐ見えたアスランの姿が、スーザンやピーターにはなかなか見えない。そして最後の場面・・・11歳の私にとっては、大人になるということの意味や覚悟を、漠然とではあるが考え始めるきっかけになる一冊だった。
改めてこの本を読み直してみて思ったのだが、この巻は戦いの場面の表現も「ライオンと魔女」よりシビアな気がする。
これを読み直す前、ちょっと必要があってマクベスのストーリーをチェックした。そのせいかもしれないのだが・・・ストーリーにいくつかの類似点を発見。
ダンカン王を謀殺して王位を奪うマクベスと兄王を殺して王位につくミラース・・・二人とも前王に心を寄せていた重臣をも退ける。ダンカン王の息子マルカムとカスピアン王子、そしてバーナムの森と黒森・・・どちらも、森が動くことが勝利へとつながる。二つの物語がオーバーラップして感じられる。この「カスピアン王子のつのぶえ」のストーリーが、マクベスの裏返し(父を殺された王子の立場から)の物語のようにも感じられる。
イギリスの物語には、やはりシェイクスピアという土壌の存在が深く影響しているのだろうか?
ひとりごと・・・そんな事言えば、指輪物語だって・・って言われちゃいそうですけどね~。それに、私のマクベスの理解って極めて幼稚。それでも、「誰があの大森林を動員して、大地に張った根を抜いて集まれと木々に命令できる?」というマクベスの台詞に「アスランが!」って突っ込みたくなっちゃう私です。

カスピアン王子のつのぶえ ナルニア国ものがたり (2) カスピアン王子のつのぶえ ナルニア国ものがたり (2)
C.S.ルイス 瀬田 貞二

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マクベス マクベス
シェイクスピア SHAKESPEARE 木下 順二

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